金神様の由来(本堂右側奥金神堂に安置)
 当山に安置する八宝珠金神尊は、その昔、備中高松城の鬼門除けの為、城内の艮(うしとら)の方角に祀られていたと伝えられる。ところが、その当時あの有名な秀吉の高松城水攻めの激戦が行われた。すなわち、梅雨の候、高松城周辺に大堤防を築き、足守川、長野川の水を引き入れ、高松城の周辺を水没させたのだ。しかしその当時、金神信仰が強く、近郊の人々はこの無謀なる大工事を恐れ嘆き、必ずや神罰が下るであろうと、秀吉の陣営に進言したのである。そしてその直後、本能寺に於いて主君織田信長が明智光秀の手によって討たれたのはあまりにも有名だ。
 しかるに秀吉は京都へ引き返すに当たり、世俗に言われた金神尊の神罰を、主君信長の死と共にこれを恐れ驚き、水攻めによって無惨に荒らされた金神堂を再建するため、京都への道中、当太然寺に立ち寄り、当時の住職日堯上人にその再建勧請を託されたとされている。
 時に日堯上人は快くこれを受け、法華勧請を施し法華経の守護神とするべく当太然寺本堂の艮(うしとら)の方角の位置に祀ったのである。
 それ以来、今日まで四百数十年の長きに渡り、三年塞がり、鬼門等の方位を侵す新築、改築等の各種工事、結婚、転宅等の方除け、除災安全、家運長久の守護神として、岡山県はもちろん、近隣の各県より遠近を問わず参詣が絶えず、「金神様の太然寺」として現在に至る。